北中津原の歴史・伝説

膝つき石伝説
北勢町風土記 資料第一章 北勢町教育委員会 1978年

山田川の上流は蓮華谷と呼ばれて北裏山に発し、いくつもの小谷の清流を寄せている。その一つに天狗谷というのがある。この天狗谷が合流している下手に「膝つき石」と北中の人々が呼んでいた一つの石があった。今は林道敷となってしまって、その姿はないが、此の石にまつわる悲しい物語が、北中津原に残っていた。

お雪の家は、当主を兄の新兵衛と言って、かなりの田畑を耕作する高持ち百姓だった。その頃、北中では秋の取り入れもすんで農閑期になると、まもなくやってくる冬に備えて柴刈りに山に出かけるのが習慣だった。この山稼ぎには男女の別なく、どの家でも皆が競うようにして出かけていったという。
お雪もその一人だった。

彼女は大柄な娘で、手拭いのねえさんかぶりがよく似合う人一倍の働き者、毎日半里の山道に入って天狗谷付近を稼場としていた。
ある日のこと、ふと人の気配に気付いてよくよく見ると、蓮華谷添いに登ってきたらしい一人の若い僧侶が立っていた。
あじろ笠を片手に、黒染の衣、わらじの紐が素足にくい込んでいる。
こちらを向いた太い眉毛が、お雪にはとても印象的だった。
お雪は、八重歯の見える笑顔をつくって、心持ち腰をかがめながら会釈した。
不意な人影にいくらかおどろいたのか、黙って会釈をかえした。
僧侶は、まもなくしっかりとした足取りで堂ケ峯へ向けて登っていった。
これが、お雪と僧玄信の初めての出会いだった。

多度山系の東西中ほどにある「堂ケ峯」は、員弁町地内でその昔、頂上に七堂伽藍か建ち、大勢の修行僧が往来したという。まこと、言われるような大きな寺院があったかどうかは、文献もなくさだかでないが、古代は一般に山の信仰があつく、山に住み、山で修行する者を崇拝する態度は極めて濃かった。堂ケ峯に行く道は、美鹿から登るのと、この蓮華谷を登って行くのがあるが、いずれも谷越えの山坂道だと聞いている。お雪は、知る由もない大きなお寺の様子などあれこれ想像しながら、何故か、いま逢ったばかりの若い僧侶が忘れられなかった。
   ―――― その日から早くも二十日が過ぎていた ――――
お雪と僧玄信の二人は、どちらからともなく時を示し合わせて、この天狗谷で、逢う瀬をたのしむ仲となっていた。
お雪は折りからの寒風もなんのその、身内のほてるような毎日だった。
しかし、戒律厳しい修行僧のこととて、玄信にはお雪との恋心など、許されようはずはなかった。昨日も老師から「欲念去り難ければ早々下界に去れ」と戒ちょくされたという。
このうえは、お雪と一緒に暮らすため、自分から出家の道をすてるしかないと玄信は思った・・・・・。
お雪は、玄信の胸の辺りにある自分の顔を横にふっていやいやをしながら心に思っていた。「恋しい人だからこそ立派な僧侶になってほしい。それには、我が身を・・・・・」と。
それぞれの思いを抱いて、言葉なく切ない二人の身はもだえていた・・・・・。

今日は、朝から雪時雨のする寒い日だった。お雪の帰りが遅いので、兄新兵衛は心配していた。折から暮れ六つの鐘を聞くと、何故かしら新兵衛は胸さわぎを覚えるのだった。
「もしやお雪の身に異変でも・・・・・」
新兵衛はお雪を探しに山へ走った。
蓮華谷を行けども、柴を背負って下ってくるはずのお雪の姿はない。
とうとう天狗谷近くまでやってきた。
すると、お雪は谷川の石に両膝をつき、掌を合わせて既にこと切れているではないか。
どうしてお雪が逝ってしまったのか新兵衛には判らなかった。近頃めっきり娘らしさを増してきたお雪をみて、新兵衛は今に婿さがしをと思っていた矢先の出来事だった。
お雪は持ってきた弁当にも手をつけず、覚悟の凍死のようだったという。

お雪の忌明けがすんだころ、北中津原南谷に一人の修行僧が住みついた。
何処から来てその名は何というのか、過去の一切を語ろうとしないこの僧は、毎日かかすことなく蓮華谷に登って、お雪の膝つき石に香をかたむけ、その生涯をかけて供養してやまなかったという。
この石を村人達は「膝つき石」と呼ぶようになつた。
そして、南谷に存在する「山伏塚」は、この修行僧の墓所ではなかろうかともいう。

(資料の原文をそのまま引用している文章ではありません)

著者 故伊藤竹士

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