北中津原の歴史・伝説

祖先の大偉業 新溜づくり
北勢町風土記 資料第一章 北勢町教育委員会 1978年

『亡き古老の話』

 わしが17、18の頃やった。村の衆みんなの願いでようよう新しく溜をつくるだんどりが出来た。

 80戸の村人はみんなため池作りに働きにいった。溜になる底やまわりの山の土を大きな棒杭をうちこんでくずし、その土を「数もち」というて、もっこでいのたんや。いっぺん堤まで運んで「二毛」と書いた木札をもろた。その札を一日ためて、日の暮れにお金とかえて帰った。あやうく土砂の下敷きになりかけたこともあった。小学生たちは帰って来ると、「数もち」にいった。子どもは「一毛」ぐらいのもんじゃた。

 それだけに完成した時はえらいこっちゃった。神主さんの祝詞や、尊重の祝辞は今も太閤検地の書類といっしょに、巻物にして村の宝にしてある。

 さて、溜は出来たが冬の間につけた水を村中の田にひくことは大事やった。何せ溜のしりと村の入り口の勾配は五寸しかなかった。溜の「どう」は今みたいなセメントの階段状の斜桶やなく、松の木をくりぬいたものに、風呂釜の栓をしたようなもんじゃ。尺八というとったが、そこを流れ下る圧力で水を押し流したんやな。マンボで山をぬいて谷に出て、かけ樋で川を越し、ゆ水で西の田にもっていくのはたいへんやった。やみ夜に男衆がちょうちんをとぼして並び、こっちから竹を割った水準器で通してみて大声で「上がれ」「下がれ」といって、しるしをつけたもんじゃ。

 それまで屋敷まわりは、あわ、ひえ、きびを作っとったが、田の少ない在所だけに食って生活していけなんだ。桑を作るようになつたのはもっと後や。陸稲も作ったが、よけはとれなんだ。

 水が来るというので畑を田にするため水平にせんならん。水をつけて高い所の土をもっこで運んで低い水ついた所へ入れた。田の床には赤土、ねん土で水もれを少なくした。

 やしないも化学肥料はなく、青葉をむしって入れた。そんなにしても反に五俵とれや良い方やった。

 山ぎわの田は猪が来るし、川の方は大水でかけてしまうのもたびたびやった。水さえあれば畑田はええ田やった。半日もかかって耕しに行く「広」や「小山」の田より家の近くはええな。今の若い者にはこの気持ちわからんやろうし、正しく伝えるのはむつかしいやろな。今とは、ころっとちがうでな。

(資料の原文をそのまま引用している文章ではありません)

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